「今日という日は、このために」
 #10 こだまの便り

「オルカ、オルカ!」海に面した森の中から、叫び声が聞こえてきます。
ここは、カナダ西部の太平洋に面したブリティッシュコロンビア州。ポール・スポング博士のオルカ・ラボがあるハンソン島という小さな島です。博士は、目の前の海峡を通過していく定住性のオルカ(シャチ)を、半世紀にも渡って研究し続けてきました。当初から、ストレスをかけずに野生のオルカの生態を調べる、というスタイルを貫いています。
その方法は、船でオルカを追い回すのではなく、ラボから望遠鏡でオルカの姿を探し、息継ぎのため海面に上がってきた時にだけ現れる背びれの形で個体識別をするというものです。
さらに、各所に設けられた水中マイクから聞こえてくるオルカたちの会話に耳を澄ますことで、「音から見えてくる世界」があると言います。ポッドと呼ばれる家族ごとにその会話は明らかに違い、何世代にもわたって継承されていたのです。今では、目視された背びれの形と水中での会話のパターンで、どの家族かが瞬時に識別できるまでになっています。
しかし、高い知能をもつとされるオルカの複雑に刻まれた脳が、いったい何に使われているのかは、未だ謎とされています。

島に響きわたる「オルカ!」という声は、今まさにオルカが近づいてきていることを、ラボのクルーに知らせるためのサインだったのです。森の中にいてもわかるように、水中マイクから送られてくる音が、樹々に据えられたスピーカーから聞こえてきます。ノイズのような潮の流れの音の中に、ふっとした瞬間、遠くから小さな声が聞こえ始めます。ある時は遠ざかり、ある時はこちらに近づいてくる。それは、我々が慣れ親しんだ「百聞は一見にしかず」という視覚的な感覚ではなく、「音を通してその姿が観えてくる」といったほうが確かでしょうか。まさに、ここではないどこかにいるオルカを感じることができるのです。

夜、暗闇の中から何処からともなくオルカの鳴き声が聞こえてくる時があります。森に張ったテントの中で、息を潜めその会話に耳を澄ましていると、「気配」としか言いようのない目に見えぬ存在が立ち顕れてきます。
それは、あちらの世界とこちらの世界をつなぐ、引き寄せようとすると切れてしまう蜘蛛の糸のようなものかもしれません。


ハンソン島の森には、マザーツリーと呼ばれる樹齢数百年を超える杉の木がそびえています。私が最後に島を訪れてから30年を経た今も、あの夜に森の中からこだまのように聴こえたオルカの声の記憶と共に、マザーツリーの気配が蘇ってきます。海を渡るオルカ、森を見守るマザーツリー。変わらぬ姿が、きっと今もそこにはあると感じられるのです。

※ポール・スポング博士:https://orcalab.org


水中マイクのライブ配信は、こちらから聞くことができます